他者がいるから気付いて高まる
自分だけでは気付けないことに気づく人がたくさん。
発見がある。
だから、見すぎてしまうのだろうなと思う
・義時殺しの犯人は誰になる?そのまま古畑任三郎へなりそう
・文覚は運ばれる場面では見えないから幽霊かも知れない
・トウの指導で13人その後教え子が育つかも
・ジジイが比企祖父に似ている
・義時死に際これまでの死に際要素が混じってる
・仏像の頭の穴が13
・「の13人」と「と十三人」の使い分けがある
・数えた13人から鎌倉殿の頼家を抜かして義時に入れ替えて13人かも
・麻・アサ
・最後のサシ飲みはマウントの取り合い
・川で死なない守られる鶴、八重が守りますいうてること
・俺に借りがある→京の知り合いから毒の調達先・・・
・トキューサが盗み出したことで毒発覚して伊賀の乱かも
・盗んで無かったから酒に混ぜなかったかも
・義時とちがって人をすぐ信用しないとの対比
・毒消しは安楽死の薬だったかも、で、どっちでも死だったのかも・・・
・家康のこぼす話と政子のこぼす話のリンク
・義時役作りで飯抜き
・・・
緻密だなあと思う。
気付く皆さんも本当に尊敬する。
すごい。
失われた授業の「練りあい」「高めあい」を思い出す
本当は、国語の授業などで、同じ話を皆で読んで、意見を出し合い、「そういう見方もあったのか」「そうそう」「なるほど」「さすが」と学級全体で意見を練りあい高めあい認め合うことができる楽しみが全国の学級であったもの。
今は学級内の学力差がありすぎて、意見を言っても同調して分かってくれる同じレベルの者がいない、聞いてもくれない、「楽しかった」「面白かった」レベルで話し合いにならない、友達の意見を覚えていられない、意図を汲み取れない説明できない、そんな授業にならざるを得なくなっているから、学校や授業を見捨てて塾や私立に走り見捨てあっているようにも思える。
ごんぎつねを読んで、ひとつの花をよんで、「悲しい」だけで感想を言い合って終わる。または感想すら浮かばない。そんな子どもたちの存在を切り捨てながら、ICT教育が進んでいるかのようにニュース発信されているのに違和感を感じる。
スライドを使っている授業は、入力が遅い子どもは参加すらできないのよ。
他者のことが語られない違和感
発達障害と言われる方々の自己分析本が世に出るようになってきた。
漫画で分かりやすいものも多い。
読んでいて思うのは、「他者」を自分にプラスに生かす考え方でなく、
「オレ」はこう思ったこう感じた
「オレ」はこうやってきたこういう見方をしている
というような、「他者」を理解できない表現。
報われない
当時迷惑をかけたり、危害を加えたりした多くの通常の人々への謝罪や申し訳なさを感じないものが多いこと。今のところ「すまないことをしたなぁ」と思う、と言うような表現を読んだ記憶が今のところ無い。
先生方は、時間外も使って、いろいろ工夫したりして動いてくれていたはず。
友達も、どれだけその子の行動のために学習時間を削られていたか。
一言でも「申し訳なかったなぁ」と言う言葉があれば、
当時頑張っていた先生方も少しは救われると思うが
きっとそれよりもひどい記憶ばかり残りやすいのだろうか
まず聞かない
のべ時間からしたら、他の学習をしている子どもたちの莫大な時間を奪っているのだけれども。
声なき子らの学習権
「学習権の侵害だから廊下に出すこと、隔離することは出来ない」といいながら、
学習意欲が無い子を同じ教室に入れているためにほかの子の学習権が相当奪われていることは、もっと問題にあがっていいように思う。
費用対効果
たくさんの子を支援できたはずの支援員を独り占めして
部屋を占有して
先生方の時間をケース会議でとり
授業時間を潰して本人の話を聞き
破れた掲示、壊した図工作品、散らかしたり破壊したりした教室の物品たち、その片付け。被害を受けたことへの我慢の強要。やり返せないことへの我慢の強要。
トラブルの相手先への連絡調整と謝罪
相談先の無い先生。
でも、結局は「授業が悪い」「先生が悪い」と先生が責められる
その子からは感謝もされない。
常時感情的に行動して授業時間を奪ったその子の行動。
どんな行動があっても、先生は子どもを守る。守秘義務も守る。
我慢を重ねた後、堪忍袋の緒が切れた先生の一言が
すぐにニュースになり全国に取り上げられる。
これでは先生が病んでいく