ICT やっちゃうことと、周囲との関係と、やらない子と、できない子と。

これまでの蓄積の陳腐化

これまで何十年もかけて変化に対応して身に付けてきた先生方には
時間の流れが急激すぎる。

再任用の先生が「わからん!」と怒るが、
これまでの技術が通用しないどころか、
#3行教育技術のように陳腐化している。


再任用を来年希望するだろうか。
いや、一斉学び合いのような形が進めば「いらない人」になるのだろうか

石橋をたたいている間にみんな渡ってしまうよ。

一人も取りこぼさない

一人も見捨てない

主語は

教師が「一人も取りこぼさない」気概で何とか頑張るが、
取りこぼす子がいたらゴメン。あとは頑張って生きてね。

子供が「一人も見捨てない」で行こうと声を掛け合い進む。

かなぁ

情報を読み取れない子供のことを考える。

画面を見ると目がちかちかする。
目まぐるしく変わる会話についていけない。
ゆったり本を読んで咀嚼できない
文字を人と同じスピードで読めない。
タイピングができない。遅い。
そんな子供がいたときに


基礎技能ができない子はさようなら、は、これまでの発達支援でも同じ。
学習についていけないという。
教科書を見てもどこを見ているか分からない、という。


今の教科書は情報が乱雑に並びすぎていて、本当に読みづらいと自分は感じる。
図表、写真、解説、注釈、動画コード、選択学習等々。


本人が頑張れ、おちこぼれないように頑張れ、なのかな、
でもそれが正常なのかな、どうなのかな。

TOSSで

講座が始まると、最短の言葉でいろいろな活動が始まる。
みんなそれに考えずに従うと楽なので、やる。力がつく。だからやる。

でも、ふっと気が抜けると、なんでこんなことやってるんだろう、となる。
ラソン大会で上位を目指して走っていたところから、

ふっと気を抜いて「追いかけるのをあきらめた瞬間」。


皆で追いかけている間は良い。
あきらめた瞬間、そこからのモチベーションをどうするか。
大人も子供も、それは課題。


まず、動くこと、も大事。動きながら見つけるのも大事。
でも、なにか先にあるといいなぁ。

望まれた自由と責任ある社会になっているのか?

努力しないで報われるってことは無いし
でも努力したって100m10秒で走れるわけないじゃんってのも分かるし


自分が生き残るために何をするか
GEGに参加するか否か、フェイスブックやるか否か、ウェビナーやるか否かなど、
選択が増えたのは
選択の自由と選択の責任、なのかな。


見捨てて見捨てて、最後は自分が見捨てられるのは、学んだ。
結果、アメリカは貧困層ができたと思うのだが。

支援学級の子が入る形も見てみたい。

そのクラスがそのクラスの状況をみて、運営を柔軟にしていく。
きっとその時はその時の状況があるはずだ。


それぞれが、それぞれにできることをしていく。
状況は、それぞれ違うのだから。