仮説実験授業 と 現代

メモ。

インスタグラムにライフハック動画が多数。

知りたくなくても知ってしまう。

知ってしまうと「バカの壁」ができる。知ったつもりになってしまう。

知る、ということは

知る、ということは、年齢によっても考え方によっても経験によっても変わってくる。

それを知り理解する前に子供たちにバカの壁が乱立する。


すべて知った顔をして教師を馬鹿にし、親を馬鹿にし、新しいことを知ろうとしない。

なぜそれが成り立っているかの価値や経緯を知らず、子供の思考でこき下ろす。

知的探求は、今後どんどん甘くなっていくように思う。

仮説実験授業

仮説実験授業では、問題があり、選択肢があり、討論があり、予想変更があり、実験がある。

「〇〇が言うから」を信じて突き進む、その危うさを無くそう
科学的な見方考え方を子供たちが持てるようにしよう
そうした思いがもとにある授業形態だと思う。

たくさんの討論をして、もっともらしい意見に皆が右往左往し、実験で結果が分かる。

頭がいいから間違える。

絶対正しいと思っていてもひっくり返ることがある。
少数意見で人の意見に合わせてしまったがために間違えることがある
何と言われようとも意見を変えなかった子が一人残って正解したりする。

そういうことを授業で経験して
そうしたことが当たり前と思えるのであれば、
押し付けなく主体的に考えることができるはず。


板倉先生は、オウム事件の頃、オウム側の理屈も探っている。
そして社会が同じ考え一辺倒になることを危惧してる記述が多くみられる。
仮説実験授業を生み出した経緯には、
戦争の経験からも、皆が考え一辺倒にならない世を作るためでもあったように思う。

ワクチン

ワクチンを打つ、打たない、で国民が分かれた

打たない、と表明したものを非国民のように表現したり、
打っている仕事に従事している医療関係者を顕彰、奨励するような記事が新聞に載ったり
打たないものは低学歴というレッテル貼りや、懸賞をつけて打つなど、
様々な手がみられた。

世は「打つ」一辺倒だった。

本来なら

新聞の紙面を左右の2面に分けて、
打つメリット、打たないメリットを書き討論するのが健全ではなかったかと思う。

〇〇が「デマ」というからデマ。そんな非科学的なことも無い。

学校も沈黙。

AともBともいえぬまま、何の意見討論もさせぬままだった。

今までで一番、科学的な論議や考え方の提供が必要だったのではないかと思う時期、
結局沈黙して、個人の立場を守るためには、「上に従う」しかなかった。

戦時中の先生が、体育に軍隊的要素を入れたのも、国体の種目が軍事色が強いものになったのも、
その先生が戦後に手のひらを返したように平和教育に転向したのも、
今と同じ状況だったのではないかと思う。
個人的な意見は言えない。

事実を知っているか否か

選択をする際に、
何を知っているかは判断の材料になる。


B型肝炎水俣のこと、原爆症の訴訟のことを知っていたら、
国が方向性を誤った際に、認めることはまずないことはわかるし、

当時大丈夫だと思っていたものがひっくり返ることはよくあるということを知っていたら
国のことを丸ごと信じることに慎重になるだろうと思う。



ワクチンが通常承認されるプロセスの長さや
今回開発された技術がまだ人間に試されていないこと

インフルエンザワクチンを打たないで、という論もあること

イスラエルが、ワクチンを打った後世界一の感染者数になったのに
新聞もテレビもその原因について追及していないこと

いろいろなことを、知ったうえで、考え、それぞれが判断すればよい。

ワクチン 遺族会見 - 検索


間違えることが怖い教室、怖い社会

個人が知っているということを確かめあう授業が毎日行われていれば、
皆どこかで落ちこぼれ、こぼれない様に知ったふりをし、知らないものを見下す集団になる。

皆が知らない、だから確かめる、という無知の知に基づいて
みんなで自然から学び確かめ合う授業が毎日行われていれば、
自由闊達に論議が行われ、よりよくなろうと成長できる集団になる。


コロナ禍やワクチン問題は、
多くの授業や学校が前者の状態の考え方から抜け出せていなかったことを
表しているのかもしれないと思う。

目で見たもの、考えたものを

自分の目で見たもの、考えたものを素直に表明して選べる

ワクチンが接種義務、全員強制接種とならなかった分だけ、
選択肢がのこされているだけ、
まだ日本はいい国だなぁと思う。